洞窟おじさんと仏教的な生き方
2月19日にたまたまNHKで見かけたドラマ「洞窟おじさん」があまりにも心打たれる内容だったので、ここに記しておきたい。
「洞窟おじさん」は、リンクにもあるように13歳で家を出て山に篭り、俗世から離れながらも生病老死・愛別離苦を体験し自分の生き方を見つける物語である。
親の虐待、愛犬との死別、世話好きの老夫婦、友人の裏切り、初恋、理不尽な上司、支えてくれる職員…洞窟おじさんはさまざまな出会いと別れを繰り返して「人間とは何か」という根源的な疑問を私たちに問いかけてくる。
その生き様は実に仏教的・哲学的で、私が個人的に特に印象に残った場面ベスト3を挙げてみたい。
「誰が運んでも同じだ」と荷物を運ぶ場面
自分より下の存在を必死で探し、その存在を見下すことでアイデンティティを保とうとする人間は大勢いる。そして彼らは周りの者にその見下し行為を見せ付けて自分が上であるように暗示をかけて安心している。多くの人はそれを目の当たりにしても、自分がスケープゴートになるのを恐れてなかなか手を差し伸べようとはしない。
インドにはカースト制度という強固な身分制度がある。基本バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4つに分けられているが、そのカーストからも外れた不可触民という身分の者は人間扱いされず、屠畜業や糞尿汚物処理の仕事に携わっていた。
ガンジーは自らそういった不可触民に混じって仕事をしていた。
障がい者施設で働く人々は健常者(この言葉はなるべく使いたくないのだが)から見下されがちだ。金儲けのためやコネで働いているような人、自分のことで精一杯な人は他に楽しみが見つからないからかストレスのはけ口を自分より弱い者へぶつける。洞窟おじさんの中に登場する若社長もまた従業員を人間扱いしない人間だった。
自分が見下せる存在であると認識した太った青年に、熱があるにもかかわらず重い荷物を運ばせようと怒号を浴びせる。
洞窟おじさんは若社長に怒りをぶつけるわけでも、他の人々のように見ないフリをするわけでもなく「誰が運んでも同じだ」と言ってただ荷物を運ぶ。
その姿がガンジーの生き方に重なるように見えた。
施設長が施設をつくるきっかけを問われる場面
洞窟おじさんの社会復帰のため尽力した施設の施設長は、ある日従業員の軽部さんになぜ洞窟おじさんを引き取ったのか問われる。幼い頃お金持ちの友達の家でかくれんぼをしていた施設長は、庭にあった座敷牢に隔離された精神障害の子供を見つける。「身内の恥だ」とつながれた子を見て「弱い人たちのために生きよう」と決めたのだと語る。
経済的優位に立つためでもなく社会的地位のためでもなく、ただ虐げられている人たちに寄り添いたい。このような施設長の考え方は宮沢賢治が描いた大乗仏教、あるいは遠藤周作が描いた汎世界的なキリスト教の教えそのものであると感じた。
ブルーベリージャムを販売する場面
終盤、洞窟おじさんは職員の軽部さんの好物であるブルーベリーを栽培し始め、一年後には収穫されたブルーベリーでジャムを作り販売する。おじさんはこれまで生きるために山菜や植物を獲ってきたが、このジャムは全然別物だという。
このブルーベリーは
自分で食うために育てた訳でも金稼ごうと思って育てた訳でもねえんだ
人を喜ばせようと思って作ったんだよ
これ買った人がおいしいって言ったら それ最高なんだ
大して腹にもたまんねえし金にもなんねえけど
何でうれしいのかも 分かんねえけど
何かうれしいんだよ
軽部さんにジャムを作った動機についてただ「人を喜ばせようと思って作った」と語るおじさん。嬉しそうに語るその姿はマズローの欲求5段階を超越した自己超越を体現しているようであった。
ブルーベリーの花言葉は「実りある人生」、エンディングの写真に写った洞窟おじさんは仙人のように穏やかな良い顔をしていた。
食べるためでもお金のためでもなく「人のために役立ちたい」と心から思えることが真の労働であり、人生の喜びであると改めて教えられた素晴らしいドラマだった。